足尾駅(あしおえき)

足尾駅足尾駅足尾駅わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線の駅で、栃木県日光市足尾町掛水6番地にあります。
 大正1年(1912)12月31日に開業しました。駅のホームに入ると、海抜640mと書かれた看板が目にとまります。 ちなみに東武鉄道日光線の東武日光駅は、足尾駅の標高より約100m程低い海抜543mです。
(上左写真:2008/01/04)(上右写真:2011/02/04)

東京スカイツリー 足尾駅の標高を地形図で確認してみました。足尾駅背後の斜面に記された等高線は640mです。駅の位置する場所はそれより数メートル低いので、もしかすると東京スカイツリーの高さ634mと同じかも知れません !(^^)! 。
 右の写真は、東京・墨田区の東京スカイツリーですが、建設中のタワーのため、撮影時点での高さは497メートルです (写真:2010/11/30)。
♦厳冬の夜の、足尾駅
♦足尾駅を発車した、トロッコわっしー号

足尾駅からの散歩道

掛水倶楽部 古河掛水倶楽部駅から左に折れ、しばらく進むと渡良瀬橋の手前右側に、白い建物の "古河掛水倶楽部"(2006年国指定有形文化財)があります。明治32年(1899年)建造、明治末から大正初期に改築された建物は、外観は洋風で内部は和洋折衷の木造建築で、銅山の接待や宿泊施設や会合に使用されました。館内には大正13年(1924) 製造のドイツ製のピアノや、製作年代は明治中期と推定される国産の西洋式玉突台(ビリヤード台)があります(写真:2007/10/20)。

旧足尾銅山所長宅庭旧足尾銅山所長宅応接室 明治40年(1907) に建てられ、平成22年(2010) 2月に県有形文化財に指定された "旧足尾銅山社宅群"が、古河掛水倶楽部の西隣にあります。
 左上の写真は、旧足尾銅山所長宅応接室の外観で、平成23年(2011) 10月から一般公開されました。右上の写真は、旧足尾銅山所長宅の庭で、渡良瀬川に面しています。(左右写真:2010/11/07)
♦花の渡良瀬公園から掛水倶楽部

木村長兵衛功業之碑の拓本木村長兵衛功業の碑台座銅碑台座
  当初、木村長兵衛功業の碑は有越沢左岸にありましたが、選鉱場拡張工事の為、明治44年に掛水倶楽部の対岸に位置する "花の渡良瀬公園" 内に、移設されました。
 お花見スポットに移された銅碑は、それ以来、毎年桜の花を楽しむ人々を、見守ってきたことでしょう。
 しかし第2次世界大戦時には、金属資源の不足を補うために実施された金属類回収により、銅碑も御多分に漏れず供出を命ぜられました。その結果、現在では、間口が一間三尺(約2.7m)、奥行一間(約1.8m)、高さ70cmの石積み台座が残るだけです(上左写真:2010/04/18)。
  しかしながら幸いなことに銅碑の拓本(上右写真)が、掛水倶楽部に残されています。この拓本と共に展示されている書き下し文に記された生没年月日から、木村長兵衛は享年35歳(満33歳)の若さで亡くなったことが分かります。
(写真左下:渡良瀬の功業記念碑 • 現地案内板の写真を写す)
(写真右:木村長兵衛功業之碑の拓本 • 掛水倶楽部にて)
♦碑の寸法:高さ九尺七寸、幅三尺九寸五分、厚さ六寸二分
♦篆額:木村長兵衛功業之碑
 {篆額(てんがく):碑などの上部に、篆書体(てんしょたい)で書かれた題}

‹ 現地案内板からの抜粋 ›
木村長兵衛功業の碑跡
足尾銅山の草創期に隆盛を導きながら、37才の若さで逝った古河屈指の英傑長兵衛(第4代鉱長)を称える銅碑である。明治22年(1889)有越沢に建立し、その後この地に移された。碑は第2次大戦中に溶解され、今は拓本と跡のみ残されている。
•篆額  井上 馨    •文  陸奥宗光    •書  日下部東作(鳴鶴)    •銅工  小幡長五郎
日光市
‹ 古河掛水倶楽部展示資料からの抜粋 ›
木村長兵衛功業の碑(拓本)
 明治13年(1830年)27歳で第4代抗長となった木村長兵衛は、銅の生産を飛躍的にのばし、足尾銅山の草世期の最も重要な役割を果たしたが37歳の若さで死亡。
 明治22年抗長木村長七がこの碑を建てた。当時は有越沢にあったが、渡良瀬に移建、第二次大戦中供出され、現在、土台とこの拓本が残っている。
•篆額  井上 薫    •文  陸奥宗光    •書  日下部東作    •銅工  小幡長五郎

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渡良瀬橋 渡良瀬橋明治後期に建造された渡良瀬橋は、鉄製のアーチ橋でした。その後昭和2年に改修、さらに昭和10年にコンクリートアーチ橋に大改修されて現在に至っています。隣接した上流側には平成10年(1998)に新渡良瀬橋が開通しました。
  写真の渡良瀬橋は、ネイティブアメリカン先住民族ナバホ族の神聖なる地にある、"虹が固まって石になったと言い伝えられる「レインボーブリッジ」" と同様に、この橋を目の前にすると、渓谷に懸かる虹のような美しさを感じとることができます。現在は歩行者専用橋として利用されています(写真:2006/10/09)。
♦渡良瀬川に架かる渡良瀬橋

(現地案内板の一部引用)
ここから約150m上流渡良瀬川発祥の地
足尾銅山の深い歴史を共に歩んだ渡良瀬川、その名の由来は1200年の昔、日光を開山した勝道上人が修験の途次、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやくこの辺りで浅瀬を見つけ無事に渡ることができたので、対岸の地を「渡良瀬」とし、川の名を「渡良瀬川」と命名したと伝えられている。以来、ここから約150m上流の、松木川と神子内川が合流する地点から下流を、渡良瀬川と称してきたが、昭和40年(1965)に渡良瀬川の起点は、松木川の上流に変更された。
日光市

波之利大黒天 波之利大黒天 波之利大黒天
 写真右は、勝道上人が大黒天と白ネズミの像を祀り修験の場としたと伝えられている洞穴で、大黒橋の袂にあります。その後、上人の弟子達がこの土地へ来て修行をつんだり寺を建てたりしたのが、足尾の起こりと伝えられております。
 左の写真は、"波之利(はしり)大黒天"で、同様に大黒橋の袂にあります(左右写真:2007/10/20)。
♦勝道上人修験の場と伝えられている洞穴と波之利大黒天

現地案内板(一部引用)
勝道上人が男体山を極めようとしていたとき、中禅寺湖の波の上に大黒天が現れ上人を励ました。その頃白ネズミが穂をくわえて来るのでネズミの足に緒を結び後を追うとこの洞穴に入った。そこで上人は、ここを修験の場とし、洞穴に大黒天と白ネズミの像を祀り、この郷を「足緒(足尾)」と命名したと伝えられている。
日光市指定文化財(昭和56年12月1日指定)日光市教育委員会

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軽便馬車鉄道跡 (トロ道)の残る風景

トロ道の風景トロ道わたらせ渓谷鐵道に沿って、足尾駅から足尾歴史館の下迄の道が、トロ道といわれている道のひとつです。写真は、足尾駅をスタートした直後のトロ道です。わ鐵に沿って、これから通洞駅方面に進みます(写真:2010/08/08)。

渋川橋梁大鳥居 途中、通洞駅のすぐ手前で、山側に目を向けますと、渋川の左岸に位置する蓮慶寺(れんけいじ)が目に入ります。境内には、石造りの大鳥居(市指定文化財)があります。簀の子橋神社(足尾銅山で最初の山神社)の鳥居で、もとは渋川の川岸にありましたが護岸工事の時、境内に移設されました(左写真:2010/04/18)。
 渋川に架かる渋川橋梁は、国土の歴史的景観に寄与している交通関係の土木構造物として、登録有形文化財(建造物)に平成21年11月2日登録、同月19日に登録公示されました。言うまでもなく、現役の橋梁として第一線で活躍しています(右写真:2010/04/18)。
♦わたらせ渓谷鐵道渋川橋梁 : 大正元年(1912)私鉄足尾鉄道の桐生 • 足尾間が開通。橋長14メートル、単線仕様の鋼製単桁橋。橋台は、花崗岩切石積み。石積み方式は長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積むイギリス方式を採用。

‹ 現地案内板 ›
簀子橋山神社大鳥居 (すのこばし さんじんしゃ おおとりい)
 足尾銅山の始まりは渋川(江戸期 床谷(とこや)川と記す)を遡り黒岩山(備前楯山 1273m)で銅の露頭を発見したことからで、慶長16年(1611)に江戸幕府の直山となり簀子橋を中心に開発された。「簀子橋」の名称は渋川上流に行くには峡谷があり、その断崖に丸木柱を建て簀の子板を張り桟橋を架けたところから呼ばれるようになった。文化3年(1806)に画かれた絵図には、簀子橋一帯に金山社、山神社(4社)、不動堂(2堂)が記されているが、それぞれ有力な銅山師たちが建立したものである。
 この大鳥居は護岸工事の時この地に移したが、元は川岸にあり簀子橋への入口に建っていたことから、それより上流の路は参道としての意味を示すものである。大鳥居には"安永五年(1776)丙申天五月吉日 願主 間遠(藤)村藤衛門 寄進 銅山師十四村"と刻まれている。山師達は山神様に日々繁栄と安全を祈願し畏敬の念をもって奉じたのである。なお、寛保3年(1743)に簀子橋金山社に奉納された狛犬一対が御神体とともに、大正9年(1920)に通洞山神社新殿に遷座されている。
 日光市指定文化財(昭和61年3月1日指定) 日光市教育委員会

トロ道 通洞駅を過ぎるとまもなくトロ道は、足尾歴史館の下で表通りに合流し、トロ道散策は終了します(写真:2010/08/08)。
♦トロ道(軌道): トロッコが往来していた道を、トロ道と言うそうです。このほかに、それとなく分かる程度の軽便馬車鉄道跡が神子内、中才、原の各地区にも残っています。
♦気動車形式WKT-501と足尾駅

トロ道トロ道ガードレール
 足尾駅から西側に延びるトロ道に設置されたガードレールは、馬車鉄道時代に使用されたレールを再利用して製作したものだそうです(左右写真:2010/04/18)。
 軽便馬車鉄道に使用されたレールの種類は18ポンドT字形軌道で、その軌道間は、2フィート(≒60cm)でした。現在の軽レール規格で、重量比較をすると9kgレールに相当しますが、断面寸法で比較すると、現在の規格では、最も軽い種類の6kgレールに相当すると考えられます(軽便鉄道と言うネーミングは、的確な言葉のようです)。

‹ わたらせふるさと散策マップからの抜粋 ›
トロ道(通称) : 産出した銅を運ぶため、明治23年から25年にかけて整備された道。銅は、台車を馬で引くトロッコ(軽便馬車鉄道)により、レールの敷かれた鉄道網を通って運ばれた。道路右端にあるのが、当時使用されていたレール。
 ∗∗ 『 (管理人補足) 上掲写真がそのレールで造られたガードレールです 』 ∗∗

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軽便馬車鉄道路線図馬車鉄道網明治24年に軽便馬車鉄道の敷設工事が始まりました。そして明治26年には、細尾⇔日光の区間工事が完成した。これにより、付表に示す地域間が結ばれ、渡良瀬地区を一大 ターミナルステーションとする鉄道網が完備しました。
♦馬車鉄道 : 軽便軌道上のトロッコを馬が引く輸送方法のひとつで、通常の馬車より走行上の摩擦が少ないため速度も速く、乗り心地も良く、また軌道上を走行するために舵取りも必要ないという利点を持つ。

馬頭尊馬頭尊台車の寸法は、幅約120cm、長さ約240cmと小さいものですが、保有する総台数は約220台もあり、さらに馬数は300頭余り保有していたため、一日当たりの運搬能力は約150トンもあったそうです。それですもの、この地、渡良瀬にこのように大きな馬頭尊が建立されたことは、必然的な出来事でした(写真:2010/04/18)。
 ♦ 軽便馬車鉄道 ♦
○明治23(1890)年、細尾峠鉄索架設(駄馬輸送廃止)。
○明治24(1891)年、馬車鉄道工事開始、明治26年完成。これにより、渡良瀬を、一大 ターミナルステーションとする、軽便馬車鉄道網が完備。
○大正15(1926)年、馬車鉄道廃止、ガソリン軌道車に転換。  
○昭和28(1953)年、ガソリンカー廃止、乗客はバス、貨物はトラックに代替。

‹ 現地案内板からの抜粋 ›
馬頭尊(ばとうそん)
 この馬頭尊は明治26年に下間藤に建てられ、大正10年頃ここに移した。盛時には足尾に300頭以上の馬がいて、銅山の物資運搬に活躍した。 日光市

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◎ 本ページの作成に当っては下記文献を参考にさせていただきました。記して深謝申しあげます。
  • 栃木県史編さん委員会(1980)『栃木県史 史料編 近現代九』栃木県
  • 村上安正(2006)『足尾銅山史』随想舎

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